新天中殺論@ 

天中殺とは、天が中殺された状態を言う。冲(空、むなしい)殺と表記されることもあり、中殺は「ない」と同義。天(神)がない状態となり、巷間言われるように、神様が味方してくれない時、守られない時と解釈される。
算命学では、天中殺は『時空間神秘の謎を解き明かした理論』とされ、『天中殺とは、天と地の中で存在を約束された、或いは拘束されていると言ってよい生きとし生けるものの、時空間における役割と心得、修業を教示している』と説かれている。これは逆説的な言い方で、天中殺による神様のいない世界で、役割や心得を思い知らされて、それに気が付く時(修業の時)ということだろう。

どちらにも共通して出てくる「時空間」という言葉。天中殺を論じるにはこの言葉を解き明かすことから始める必要がある。
『時空間問題に関しては、西洋哲学、東洋哲学ともに大きな課題として論じられてきたことであるが、東洋哲学思想の一環たる算命学は、天中殺法において、まさしくこの時空間哲学の明解、細微にわたる分析効果を発見したともいえるのである』と高尾先生も述べられているように、時空間の解明こそが天中殺論の骨子になる。

西洋哲学と東洋哲学の時間と空間のとらえ方の決定的な違いは、西洋では人間存在を既定の事実として、そこからとらえた時間と空間という論理が展開されている。空間は物体の延長線上にあるものであったり、意識や認識の問題であったりした。もっとも、そこには神が人間を作ったというキリスト教的な元始の存在論が前提になっていて、近世以降、神から切り離された人間としての存在論が模索されてはいるが、それとても、認識論の観点から語られているものが多い。近年、そうした形而上学的認識論への批判が高まって、存在は「現存」「実証的存在論」へと移行している。
一方で、東洋哲学(算命学)の存在論は、人間を前提としてはいない。人間は神が作ったという始源の喪失が西洋哲学の試行錯誤の始まりだとすると、算命学の存在論には人間とは何かという明確な答えが前提となっていて、その答えが、存在に対するすべての答えになり、時空間も、人間とは何かという答えの中に含まれている。

まずは、算命講座@の人間とは何か、時空間とは何かをお読みいただき、基礎知識として欲しい。


第一章 10干と12支

算命講座@の話をまとめると、人間を含めた森羅万象は10の気を根源とし、しかし、気そのものに実態はなく、それを存在物にするためには、入れ物(時間)が必要で、入れ物は12個与えられていた。これを神話的に言えば、昔昔神様は世界を作るために10の気と12の入れ物を用意しました、となる。
存在のために用意された時間枠は12あって、その上に根源の10気が蓋をする形を基本的な存在のフォームとする。
          
根源的10気(蓋) →甲 乙 丙 丁 戊 己 庚 辛 壬 癸
存在のための入れ物 →子 丑 寅 卯 辰 巳 午 未 申 酉 戌 亥

根源としての10気を天干(空間)といい、入れ物(時間)を12支といい、この二つが合わさった形(甲子、乙丑、丙寅・・・)を干支という。そして、この干支がすべての存在の単位となる。人間のみならず、森羅万象は干支によって現れることになる。
甲・・干 天の意志(魂)
子・・支 人間の原形(肉体)

★現実世界における時間と空間
ケーキを考えた時に、それは、材料(時間)と人間の意志(空間)の二つによって作られたもので、どちらがなくても、存在物にはなりえない。
人間を考えた時に、それは、肉体(時間・12支)と精神・魂(空間・10干)に置き換えることができる。

人間が死ぬ時のことを考えてみるとよくわかると思う。亡くなったとたんに、身体は機能しなくなり、意識もなくなる。抜け殻という言葉があるが、まさにそうなるのであるが、意識がとだえ身体が機能しなくなったとしても、すぐに人間が消えてなくなるわけではない。消えるのは空間(魂)であり、時間(肉体)は、ゆっくりだが変化しやがて朽ちていく。それを肉体は生きていると呼ぶことはできなかったとしても、肉体は時間によって、完全に消え去る方向へと移動していることは確かであろう。人間が魂と肉体で作られていることがよくわかる。
空間のない時間は「生きている人間を作らない」。このことは、天中殺をより深く理解する上で大事なことになるので、頭に入れておいてほしい。

そして、その人間が生きる場を世界と呼ぶと、その世界にも時間と空間の区分けはあって、算命学では次のように述べられている。
『人間の価値というのは、時間と空間、つまり時代と社会で決まるのです』
漠然と考えると、時代も社会もそれほど違いはないように思えるが、肉体と精神と同じような違いがある。
例えば、江戸時代を考えてみると、「時代」=時間で、1603年〜1868年が時代を意味する時間枠となる。そして、社会とはその時代を作っている精神のこと。その時代に生活する人々の価値観や考え方や道徳観などは、現代とは大きく異なっている。のみならず、江戸時代を生きた人間のDNAも空間と呼んでいいと思う。その時その時の人間そのものや価値観、モラルなどを総じて空間と定義している。

また、時間は必ずしも人間時間ではない。例えば、同じ時代で、都心と地方を比べてみると、地域=時間となり、そこで暮らす人々の、県民性や背景(歴史、文化など)が空間となる。

時代も空間も固定された価値や規範を持つものではない。これをまずは間違えないようにして欲しい。といっても、相対的というあいまいさがあるわけではなく、一定区間(期間)においては、固定された価値や規範として現れてくる。ただ、そこに真理的な絶対性や永続性はなく、流動的なものであることが重要になる。流動性と言っても、長い人類史的な位置における流動性となるので、自分が生きている時代という意味では、固定された時空間に人は生きていると言ってもいいだろう。算命学も「固定された」と言う意味で、時空間という言葉を使っている。そこに、大きな落とし穴があるのでは、という疑問をこれから提示していく。

算命学が言う、時間と空間で人間の価値が決まるということは、今、自分が生きている時代、社会の通念に見合った生き方をすることが自然な生き方(価値ある人生)となる、ということだろう。そのことは、高尾先生もいたるところで強調されている。
算命学には空間優先論というのがある。『必ず精神=魂である(陽)が先行し、陰である現実は、結果論として出ることになる』と説かれている。これゆえに算命学は天中殺を嫌うのである。天中殺で作られた現実は魂のない現実ととらえられている。精神=魂とすると、そこに普遍性を感じるが、魂とは気に宿るエネルギーの方向性、指向性のようなもので、それ以上のものではない。空間=精神=魂=社会という等式がなりたつ。それは現実を作る意志ではあるが、絶対的なものでもなければ正しいものでもない。時代によって変化していることは歴史を観れば明らかだろう。それはただの意志であって、意志が向かう先は人知を超えたところにある。また、天中殺は空間(魂)がない時と言われるが、魂のない空間は死体であり、それはもはや現実でもない。天中殺=魂がないというのは正しくない。仮の魂の時、そう解釈すべきだろう。

               
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