四方山話@ 

神様への道 
さだまさしの歌ではないが、それはまだ僕が神様を信じなかったころのお話し。8月のとある日曜日、終わらない夏休みの宿題に汗を流していた時、突然舞い込んだ訃報が僕の人生をひっくり返して行った。
友達が、死んだ。
 
それまでの僕は、恋愛とギャンブルにうつつを抜かすごく平凡な男の子だった。勉強嫌いで、男子ばかりの工業高校しか入るところがないと言われ、最後の数か月猛勉強して、やっと共学の普通科に入ることができた。

土→金→水と気は龍高星に集まる。この星は興味の対象を実感しながら入力するもので、机上のお勉強には向かない。目的や方向が定まらないと散漫な思考力になってしまう。まさに、そんな中学生時代だった。僕の宿命の特徴は全部陰干でできていることだ。20代の前半、占い好きの彼女がいて、バイト先の喫茶店のママに僕を占ってもらったら「女みたいな男ね」と言われたと言った。その時の屈辱的な思いは今でも忘れられず、それ以来占いが嫌いになった。陰干は女性の気で、まさに女みたいな宿命だ。そういわれると子供のころから男嫌いで、本能的に男子高校を嫌ったのは陰干100%の宿命のせいかもしれない。女性10人の中に1人いても違和感はなく、居心地の良い空間だと感じるのもそのせいだろう。好色漢ではなく生まれ持った体質なのだ。

閑話休題。その高校は、上位の普通科に入れなかった人が二次志望で回ってくるようなところで、僕のようなぎりぎりセーフ組だけでなく、ずっと頭の良い人たちもいた。友人もその一人だった。それが、夏休みの家族旅行、海で、溺れ死んだ。
 
こんな運勢だった。なるほど、石門星(仲間の星)だ。辰酉の支合は精神支合。破的現実を乗り越える強い意志が生まれる時だったが、どうだろう、言えることは確かに破的現実によって心は一つのことへと向かっていった。「破」は修復可能なほころびだが、時に、とてつもなく大きな破れ目となることがある。算命で言うような決して軽い散法ではない。

その日から僕は、それまで何の疑問も持たなかった「生きる」ことに向かい合うことになった。一生懸命受験勉強して、これから楽しい高校生活が始まろうという矢先に、この世を去ってしまった友人。彼のこれまでの人生はなんだったんだろう、その疑問がずっと頭から離れなかった。それはシンプルに、生きるとは何だ、人は何のために生きるんだ、という疑問に変った。

今思えば、僕たちの若い時(1960年代〜70年代)はそういう時代だった。戦中から戦後は滅私奉公という、文字通りに私を滅して公の復興のためにみんなが一丸になって生きていた。それが一段落するとともに自分の足元を見つめるようになり、私を滅さない時代へと移り変わった。そして、「私が生きている」ことを実感しだしたところだった。

テレビでは我が国の将来の問題を誰かが深刻な顔をしてしゃべってる
 だけども問題は今日の雨 傘がない♪

これは1972年の歌。学園紛争が下火になり、若者が方向を見失いかけたころ、陽水は、もう時代が変わったんだよ、大切なことは自分がどう生きるかってことだろう、と歌った。その意味では、僕はそれよりもずっと早くに人生と向かい合うことになり、それは僕だけではなく、時代の流れだったのかもしれない。当時の人気テレビドラマは「青春とはなんだ」という、ずばりのタイトルで、毎週、真剣に見ていた自分を思い出す。原作は石原慎太郎の同名小説で、苦悩する若者たちが、仲間に支えられながら成長する姿を描いていた。若者が純粋に燃えていられた時代。明治が遠くなったように、あんな時代はもうやってこないのかもしれない。

友人の死によって向かい合わされた「生」。それはどう考えても意味のある事とは思えなかった。当時の日記に人生とは自分の墓穴を掘ることだと書いた。思春期特有の死への憧憬ではないリアルがあった。夏休み前まで、仲良く遊んでいた友人が数か月後に存在しない人になっているという事実。そこから僕の龍高星が動き始めた。人はみんな死にゆくもので、20年か80年かとしても、その差の60年にどれだけの違いがあるというのか。彼の受験勉強の日々が、結局何の役にも立たなかったように、80年の年月も死によって消されていくのだ。そんな思いが頭から離れなかった。人の一生がひどく些末のものに思えてきて、「虚無」という言葉に気負いにも似た居心地の良さを見出していた。

彼の死を悲しむクラスメイトはたくさんいた。でも、数か月もたてば、みんなそこからは抜け出していたように思う。僕だけが、いつまでも「そこに」、とどまっていた。

日干乙丑。木性の弱い自我。出来事は大運初旬。季節は秋で主気木性の死地、自我で踏ん張ることはできない時だった。自我数値だけをみれば、平均10%なのだから、保っていられる数字ではある。問題はそれが精神干一つしかなくて、32の力で激打ちされ、27の力で何かを激剋していかなければならないことにある。

自我とは日干を言う。自分自身であり意識(魂)が宿る気のことだ。天干にもうひとつあれば、自意識は強くなり、それが自分へのこだわりになる。天干に陰陽干があれば、微妙に違う自分と自分を和合させようとする働きが起こる。微妙に違う自分は時に異性であり、時に仲間であり、時に自分自身が変身する要素でもある。自分と同じ気が地支(現実)にもあれば、自分が思う現実が作られることが当たり前になり、それは時に自己主張やなんとしてもという強さになって行く。
自我1気は、脆弱な自意識が一つで、現実に反映させるべき自分がないことを意味している。ただ、中学生くらいまでは、気の弱さはあったとしても、居場所のなさや生きることの大変さを思ったことはなかった。自分の家があり、学校があり、自分が意図しなくても居場所は作られていたからだろう。そこがもし、居心地が悪かったら僕の人生は出だしから苦難の道だったようにも思うが、幸いなことにそれまでの僕は、意識と現実の違いを思い知らされるようなことはなかった。つまり、無自覚に、好きなように生きてこれたのだ。

27%の激剋(禄存星)はほとんど恋愛に使っていたように思う。あるいは、ギャンブル(小学生・ビー玉、めんこ、ベーゴマ、中学生・トランプ、花札、麻雀、競馬の予想)へ自分を激剋していたのか。ギャンブルも恋愛も自分が取得するものではないという共通現象がある。禄存星の恋はそのプロセスの燃焼であって、現実的取得を意味しない。結婚や同棲という現実の形を持てば、それはもう恋とは呼ばないのだろう。実れば恋としてはそこで終わる。ギャンブルは得ればまた次へと賭けて行く。どちらも永遠にそれを続けていくことができる可能性を持っている。禄存星とはそういう星だ。
激打される構造(車騎星)は自分を空にするためのもの。無心を作る。自我が弱ければ、それは背中を押されて前に出て行き、しかし、自分の意志はないので、人のために役立つことをする。自分が強ければ、こうしたいという自分とそれをさせまいとする鞭打ちとの葛藤。好きなスポーツをやるために、過酷な練習に耐えることができる構図だ。私欲を打ち消す正義感や使命感を嫌でも背負うことになり、若い時は混在して、私的正義感使命感となって行くこともある。

前者だった僕はそれを恋愛とギャンブルで燃焼していた。友人の死は、もうそろそろ目覚めなさいと神様が眼前させた現実だったのだろうと、今なら思うこともできるが、当時は人生を否定する考えの中に没頭することになった。
大運は玉堂星で、学べと言っている。それまでの僕は、本はほとんど読まなかった。確かに、それを境に玉堂星を使う方向へと変っていった。


                
inserted by FC2 system